2007年08月31日

執事、呉に行く Part2

さて・・本題・・というか、中に入ります。
ニコニコ顔のお姉さんの横で切符を購入して少し歩くと・・・。


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日本海軍が当時の技術のありったけのものをつぎ込み、徹底的に情報は機密事項として建造した世界最大級の戦艦「大和」・・・。

呉海軍工廠4番ドック・・・。
もともと修理、造船の最終行程の「艤装」のためのドッグを改造、拡張し、山手の住民からは全く見えないよう、屋根が作られ、側を走る呉線には目隠しの板まで張り巡らせ、何もかも徹底的に機密事項にして作り上げた世界最大の戦艦。。
普通は声も高らかに、艦名を命名され、沢山の関係者に見守られ乍ら斧が落とされ、海に送られていく「進水式」。
大和は徹底的に機密故に、一部の限られた幕僚のみが出席、命名もヒソヒソ声で行い、ドックに水をはっただけの静かな静かな進水式で作られて行ったようです。

しかし完成した時にはもう戦艦がメインの時代ではない。。
既に時代の戦力は航空戦力が主体。
航空戦力を甘く解釈していた幕僚達には日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した「栄光の日々」から思考が脱却出来ていなかったのか・・・・・も知れません。


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大和ミュージアムに展示されているこの模型は、沖縄戦(菊水作戦)時期のものです。
対空兵装がかなり増やされています。
もともと大和はこれほど対空の設備はありませんでした。
しかし、状況がどんどん悪くなり、嫌でも航空機に対する対策を考えなくてはならない。
沢山の機銃、高射砲はやらざるを得ない改造だったと思います。
でも時既に遅し・・・。

ミュージアムの常設展示の中に、山口多聞少将の遺書と、参謀時代のモール、奥さんに当てた手紙が展示されています。
彼は16年6月のミッドウェー海戦で自ら指揮をした空母と共に海に沈みます。
彼はその後にブーゲンビル島に向かう途中に撃墜された山本五十六と同様、アメリカ駐在経験もあり、アメリカの国力、民族性など様々な側面を熟知していた海軍内でもグローバルな視野を向けていた人物で、航空戦力の重要性も理解しており、その運用方法にもかなりの能力を発揮した人物だと言われています。
早い段階で日本海軍は彼を始めとする逸材を次々と失っています。
戦争に勝つ、負けるではなく、こういった誇らしい逸材の意見を聞かなかった当時の軍令部には疑問を感じざるを得ません。。それほど過去の栄光が強烈だったのでしょう。
栄光にしがみついた故に・・・失ったものは数知れず。あまりにも大きかった・・。

大和から引き上げられた沢山の遺品。
さすがに写真には撮れませんでした。
そして写真すら残っていない若い士官、兵士達。。
名前がずらっと明記されていました。
どんな思いで彼らは・・・。

第二艦隊司令として着任した伊藤整一中将は、参謀長草鹿龍之介から作戦を命令されます。
しかし断固として反対します。「航空機も無い、制空権も無い、沖縄に到達するはずもない。それを承知の上で7000人の命を無駄に死なすわけにはいかない。」
彼も山本、山口ら同様、アメリカ駐在経験もあり、開戦初期から、アメリカ各国を「甘くみるな」と言い続けて来た人物・・。

最終的には「一億総特攻の魁となって頂きたい」と押され、作戦を承諾します。
出撃前、彼は兵学校を卒業して間もない兵士と、年配の兵士に対して退艦命令を出しています。
断固として残った少年兵らも若干居たようですが・・。
そして4月5日、徳山沖を出航します。
運命の4月7日に向けて・・・。


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二度と呉に帰って来る事の無い彼らは、桟橋からカッターに乗り、どんな風に大和を見上げていたのでしょう。。
日本の勝利を信じ、日本の繁栄、末長い日本という国の存続を信じ乍ら、彼らは血を流して倒れていったのではないでしょうか。

大和最後の艦長、有賀幸作は嫁、息子、娘達に対する遺書の最後に、
「皇国臣民として、立派に生きろ」といった趣旨の文章で締めくくっています。

果たして我々は、遥か遠方で、日本の民族の繁栄を信じ乍ら散っていった彼らに「立派に生きてます。」と言えるのだろうか。。。

ニックネーム パール姫の執事 at 22:50| Comment(2) | TrackBack(5) | よもやまな旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

執事、呉に行く Part1

(今はもう古いヒロシ登場の音楽に乗せて・・)グッド(上向き矢印)るんるん

執事です・・。

今日、広島の呉に行って来たとです。。

執事です。。
執事です。。。(以下続く)

冗談はともかく。晴れ

執事が呉に赴いた理由は、とある場所を一度見てみたかったからなのです。
それはこちら。。

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海事歴史科学館、通称「大和ミュージアム」
建物のあちこちにれんが造り風の趣きがあります。

第二次大戦当時、呉には各地域の海軍を総括する「鎮守府」という機関が置かれ、
特に呉鎮守府は海軍の総本山的な所があります。。
既に空襲でほとんどが無くなってしまいましたが、呉には海軍工廠があり、造船技術の
エリートたちを集め、養成し、そこから優秀な技術が生まれ、軍艦、艦艇が作られていきました。。

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ミュージアムに近づくと、何かしらの艦艇のオブジェが置かれています。
これ、何だと思います?

これは、当時国民からも人気があり、海軍といえば・・の代名詞的存在でもあった
戦艦「陸奥」のパーツ類なのです。
同類艦として、「長門」があります。

左から、陸奥の後ろにあった海軍旗の掲揚ステー、錨、後部フェアリーダー(係留する際、ブイのロープをここにひっかけます。)です。(^^)

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陸奥の主砲ですね。。
正式名「四十五口径三年式四十一糎砲」、41cm砲は、大和が出るまで最大の主砲でした。

陸奥は悲劇的な最後を遂げます。
1943年6月8日、呉港沖柱島泊地に停泊中、突然後部から大爆発を起こして乗組員もろとも沈没してしまったのです。

突然の爆発に近隣住民の皆さんも大騒ぎしたそうで・・。

爆発の原因は今もって不明で、色々と憶測が飛び交っています。陸奥の中であったいじめを苦にした自殺、窃盗事件横行による自爆など・・。
しかし、司令部は爆沈した事は一切公言しないように徹底し、完全に口封じをしたようです。

お役人様の隠蔽体質は、この時代もあったのですね。。
相変わらず情けない気持ちが駆け巡ります。。

次回はいよいよ本題に進みたいと思います。犬(笑)
ニックネーム パール姫の執事 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(5) | よもやまな旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする